小鹿田焼

■小鹿田焼のはじまり
・技術提供者-小石原焼中野窯-柳瀬三右衛門
・資金提供者-日田郡鶴河内村-黒木十兵衛
・土地提供者-小鹿田の地域の地主-坂本家(仙頭)
時の代官により領内の生活雑器を必要とされた背景もありこの3名により江戸時代に初期に小鹿田焼の基礎が築かれました。明治大正の時期までは、半陶半農であり小さな窯場でした。飛び鉋、打ち刷毛目の技法は、大正末期昭和初期から始まります。※仙頭・・・地域の指導役
▼小鹿田焼の開窯は、1716~1735年の間という近年の調査結果もあります。いずれにしろ地理的環境などの制限がありますが分家として開窯され現在は、9軒の窯元で昔ながらの技法と精神を守り一子相伝で継承されている全国的にも稀な陶芸集落です。生活雑器を作ることを目的としている小鹿田焼は、今現在も奇をてらうことなく純粋なものづくりが行われている所に長く庶民に愛される理由がです。
■自然の恵みを活かす
小鹿田焼集落(源栄町)の山で採取した土の塊は、川の水流を利用した唐臼を使用して細かく粉砕します。砕かれた土は、水を利用して泥状の土を取り出し水分をある程度抜いた状態で蹴轆轤(けろくろ/足で回す)を使用して成形しています。釉薬は、鉱物を含む土と木や葉の灰などを掛け薪をくべた登窯で焼きます。現在でも電気やガスを使用せず一つ一つ手作業で多彩な表面模様を施しつつ製作されています。
▼「残したい日本の音風景100選」に選ばれ李朝から伝わったとされる唐臼は、水に強い松の丸太に水舟(水受け)を掘りそこに川の水を流し込むことでししおどしのように土を突く仕組みです。機械や電気がない時代において人の労力を軽減する画期的なものです。現代においても土、釉薬、焼成など自然の恵みを活かしている作陶の姿は、持続可能な世の中を目指す時代の中で当たり前のように存在しています。
■民芸としての評価
「民藝」という言葉と思想を生み出した柳宗悦は、昭和2年に久留米の陶器屋で小鹿田焼と出会いその四年後に皿山の地を訪れました。その後、陶芸家 浜田庄司やイギリスでも著名な陶芸家であり画家、デザイナーであるバーナードリーチが訪れ3週間ほど滞在しています。同じく陶芸家でもある河井寛次郎など民芸運動の中心人物であった方々も多く訪れ小鹿田焼に感銘を受け作陶に対する技術や「用の美」の思想を伝えると同時に「猥りに昔を崩れさぬ様」と願い「世界一の民陶」と称えました。
民芸運動のもと、それまで「日田もの」「日田焼」などとも呼ばれていた陶器は「小鹿田焼」という名で全国的に知られるようになりました。この時代から現代の小鹿田焼の基礎そして思想が確立されたといっても過言ではありません。
■民芸としての評価
「民藝」という言葉と思想を生み出した柳宗悦は、昭和2年に久留米の陶器屋で小鹿田焼と出会いその四年後に皿山の地を訪れました。その後、陶芸家 浜田庄司やイギリスでも著名な陶芸家であり画家、デザイナーであるバーナードリーチが訪れ3週間ほど滞在しています。同じく陶芸家でもある河井寛次郎など民芸運動の中心人物であった方々も多く訪れ小鹿田焼に感銘を受け作陶に対する技術や「用の美」の思想を伝えると同時に「猥りに昔を崩れさぬ様」と願い「世界一の民陶」と称えました。
民芸運動のもと、それまで「日田もの」「日田焼」などとも呼ばれていた陶器は「小鹿田焼」という名で全国的に知られるようになりました。この時代から現代の小鹿田焼の基礎そして思想が確立されたといっても過言ではありません。
【小鹿田焼ができるまで】

【古小鹿田】
